サブボトムプロファイラー(SBP) 3.5khz
ナロービームサウンダ(NBS) 30khz
物理探査装置
空気圧縮機、エアガン、ストリーマーケーブルより構成され、海底下の地質構造を探る。
深海底鉱物資源探査装置
多周波数超音波探査システム(MFES)
深海用高速度テレビシステム(DTV)
データ収録および編集装置
その他、数々の機器を搭載した。
優れた調査船が出来上がった。今日まで白嶺丸同様、大きな成果を上げいる。
ところで、第2白嶺丸の運航を委託する会社について、金探では、白嶺丸の運航とは切り離して、別途、もし、より良い会社があるならば、そちらを選ぶべきで、この点について、部外者を交えた組織に、公正な判断を仰ぐこととされた。そして広く運航委託会社の募集をされた。
数社が応募した。選定を行う独立組織は、細かい点まで検討事項に入れて、公正な判断を行った。その経緯は、不採用の会社を傷付けることにもなるので、部外秘の扱いとなっている。ただ、私は、その構成メンバーの1人であったので、経緯をよく承知しているが、選定はまことに厳正に行われた。
結果として日本海事興業が選ばれた。偶然、白嶺丸の裸傭船を行っている会社と一致した。したがって、その後、白嶺丸、第2白嶺九ともに、同一の委託運航システムの下で運営されている。
この時、もし他社が選ばれていれば、白嶺丸の運航委。託金杜と、第2白嶺丸の運航委託会社は別会社となる可能性もあった訳である。
以下は私が仄聞した話である。この時、不採用となった会社の1つが、そうした厳正な選定経過があったことを御存知なかったらしく、暫く経ってから、国会議員を伴って金探に、いわゆる談判に乗り込んでこられた。
金探側は、選定の経緯を率直に話されたらしい。国会議員は直ちに手を引かれた。その会社も、それ以上、追及してくることはなかった。関係された金探のトップクラスの方が、あの時、第3者を交えた、独立組織で選定しておいてよかった、と私に個人的な話として、しみじみとした口調でおっしゃったのを今でも鮮明に記憶している。その会社はそれから間もなく消えた。談判に来られたこと自体、当時、会社の経常が苦しがった状態にあったのかも知れぬ。
ここで私は、やや私事に亘るかも知れぬが、東海サルべージの、藤原和彦氏との交友のことに触れておきたい。
白嶺丸の運航の一翼を東海サルベージが担われるようになった頃、私は藤原和彦氏と知り合った。気が合うというのが、年は私よりお若かかったが、友達付合いをさせて頂いた。当時は常務だったが、後に確か社長であった兄さんが亡くなられて社長となられた。御父君が社長の頃、戦後間もなく、第二次大戦中に米軍が落としていった機雷の処理を数多く手掛けられて、瀬戸内海をはじめ、日本周辺の航路の安全の確保に大きな貢献があったことは有名な話である。
藤原さんは、いわゆる御曹司社長である。
会社の経営関係などについての御相談を受けたことはない。ただ、日常生活を語り合う間柄であった。
私の弟.子で琉球大字の先生をしている木村政昭氏のお弟子さんの宮木元行君が東海サルベージに入社を希望しているので、口を利いて欲しい、と木村氏から頼まれて藤原さんにお願いしたことがある。面接することを快諾されて、無事入社することができた。
地質教室の後輩で、金沢大学の小西健二教授から、お弟子さんの畠周平君が入社を希望しているので、何とか頼んで欲しいと依頼があった。彼も面接をパスして無事入社した。
私が東大海洋研を停年退官したのは1984(昭和59)年である。その2年前の1982(昭和57)年10月15日、初代の淡青丸が老朽化したので、代船を三菱重工の下船で建造し、東京湾で引渡しを受けた。当然、初代の淡青丸は処分せねばならぬ。最悪の場合はスクラップとして業者に引き取って貰う。が、沿岸近くであればまだ使える。名船であったので、私はスクラップにするに忍びなかった。当時、私は所長を務めていたので、ある程度、そうした交渉はできる立場にあった。
私は率直に藤原さんに相談した。藤原さんは初代淡青丸の使い勝手のよさを十分、聞き知っておられた。訴はどんどん拍子に進み、1983(昭和58)年2月25H,1口淡青丸は東海サルベージに買い取って頂いた。代金は勿論、国庫に入った。東海サルベージでは、同船を作業船として使い易いように修理・改装され、第10海工丸と命名して、その後、活用して下さった。
この東海サルベージが、ある時、東南アジアで作業中の船が、誤って海底電線の切断事故を起こし、その賠償令の支払いから始まって不運が続き、1990(平成2)年4月2日に倒産した。まことに残念なことであった。
ただ、藤原さんの人柄をはじめ、東海サルベージの業績を高く言平価していた石油資源(株)(国策会社といえよ
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